ベターな人
いきなり質問ですが、あなたは作家の能力を見る際に、その作家がベストな状態で作った作品と、最低な状態で作った作品、一体どちらをその人の「本当の実力」としますか?
環境が悪いために最低な作品しか作れない。でも助けがないのだから、それがその人本来の実力だ、という人もいるでしょう。逆に最高の環境で作った作品が実力かというと、こちらはこちらで上手く制御できずに破綻する場合があるようです。
僕はアニメファンなのでアニメ作家を基準に考えてしまいますが、富野由悠季はVガンダムを、庵野秀明はヱヴァQを作った後にどちらも病んでいます。押井守もイノセンスを作った後に「消耗した」「疲れた」と言っていました。
そのためか、どの作家もその後に肩の力が抜けたような作品を作ってます。富野は「ブレンパワード」押井は「アサルトガールズ」庵野は「シン・ゴジラ」です。
これらの作品、個人的にはダメではないけど、そこまで凄くはないな…と感じました。ただ改めて考えると、これらは作家にとって「ベター」だったのではないでしょうか。
時代の先端を行くわけでもなく、ただ自分の作品を作る。それだけ。…という印象です。
「富野と庵野はともかく、押井はアサルトガールズ?」と思う人もいるでしょうが、押井守ってパトレイバーや攻殻機動隊のインパクトで「そういう人」と思われがちですが、どれも他人の原案がある人なんですよね。なので押井本人が一番ナチュラルな状態で作れたのが『紅い眼鏡』や『アヴァロン』の延長にあったアサルトガールズなのではないかと思ったわけです。
富野は自身が見出した永野護のロボットに、元々自分にあったスピリチュアルな要素を足した作品を作りたかった。でもガンダムの器では窮屈だった。庵野もアニメで出来そうな事はやり切ったみたいで、自分が好きな特撮をやれる自信がようやく付いたのかもしれません。
人間、ベストでもワーストでもなくベターが良い。…という事でしょうか。でも自分がそう在りたくても、他人はそれを許さなかったりして難儀です。まあ作家にベストを求めちゃう僕が言えた義理ではないですが。では。
今昔漫画家物語
今回は漫画家に対する思いつきです。
僕が10代の頃読んだ少年漫画で中心にいたのは鳥山明だと思うのですが、他に「真面目なゆうきまさみ」「奔放な萩原一至」がおり、鳥山はこの二人の中間の印象です。
実はこの並び、更に昔の三大巨頭を参考にしております。奔放な永井豪、真面目な横山光輝、中間の手塚治虫の3人です。
この新旧の対比、どこか似てると思うんですよね。黙示録的な世界を描いた永井豪と萩原一至。巨大ロボで敵と戦う横山光輝とゆうきまさみ。お子様ロボットを描いた手塚治虫と鳥山明。
まあ巨大ロボは永井豪もマジンガーZを描いていますし、手塚は魔神ガロンやマグマ大使、萩原一至も『BASTARD!!』で竜戦士ルシファーを登場させています。なので正確な対比ではないのですが、大雑把な印象です。
尚、萩原>鳥山>ゆうき の順でエロ度が下がります。永井>手塚>横山 も同様。
ただ時代が違うせいか、作品数が全然違います。特に萩原一至は『BASTARD!!』の一発屋みたいな感じですし(あかほりさとると組んだ『爆炎CAMPUSガードレス』とかありますが)、鳥山明も『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』の二発屋です。ゆうきまさみは一般にはあまり知られてませんが、そこそこのヒットを出し続ける、打率高い人の印象です。
ちなみに『爆炎CAMPUSガードレス』ですが、ウィキペディアのあらすじには、
東京のはずれにある扉学園は、魔界とこの世をつなぐ“門”で、生徒たちは全員がそれを守る“防人”。世界と魔界を繋ぐ「門」の守護者“防人”をやっている最強の神野八純を中心としたサイキックアクション&ラブコメディ。
とあります。先日発表された新海誠監督の新作映画『すずめの戸締まり』が「列島各地に開いてしまう、災いの扉。主人公の鈴芽(すずめ)がその扉を閉めて旅をする」と言うストーリーらしく、なんか似てますね。
スーパー系とリアル系
巨大ロボの世界に「スーパー系」と「リアル系」がいます。マジンガーZ的なロボがスーパー系、ガンダム的なロボがリアル系です(大雑把な説明)。
詳しい人には当然の知識だと思いますが、バーチャルアイドルの世界におけるボーカロイドとVTuberの関係って、それと同じなんじゃないでしょうか?
超科学で動くスーパーロボットと、生身の演者がいない神秘的なボーカロイド。既存の技術に落とし込まれたリアルロボットと、生身の演者が存在するVTuber。どこか似てませんか?
モビルスーツの種類の豊富さとVTuberの数の多さにも、どこか似たモノを感じてしまいます。
ここ10年ロボアニメの衰退が著しく、てっきり「萌えアニメに置き換わったのかな?」と思っていましたが、正解はバーチャルアイドルだったのかもしれません。
対義語シリーズ
憎しみは何も生まない→「慈しみは何も生まない」…皆で餓死しましょう。
事なかれ主義→「事あれば主義」…余計な仕事増やすなよ。
指示待ち人間→「指示だけ人間」…聞き分けのない子は嫌いです。
消費者根性→「生産者根性」…無能が生産者視点でモノを言う。プロに徹せよ!
胎内回帰願望→「胎外排出願望」…いいから出せや。
環境保護活動→「環境破壊活動」…創造は破壊から生まれる。まずはゴミ拾いから。
自己犠牲精神→「他者犠牲精神」…お前は存在してはいけない生き物だ。
思考停止→「過剰思考」…脚本の人そこまで考えてないと思うよ。
弱肉強食→「強肉弱食」…弱者が強者を食い物にする状態。得意技は丸投げ。
開拓者精神→「革命者精神」…置かれた場所で咲きなさい。
文化のアップデート
自分はここ数年病気の治療に励んでいたため世間の変化に疎かったのですが、最近ようやく分かってきたのが、いつの間にか文化がアップデートされてたんだな、という事です。
ツイッターでは「価値観のアップデート」みたいな言葉を目にしますが、個人的にはこちらの方が気になります。
昔と違いオジサンが当たり前にアニメを見るようになっていますが、これって昔のオジサンが仕事を終え帰宅した後、ビール片手にプロ野球中継を見ていたのと同じなのではないでしょうか?
昔の人からすれば「どこが同じなんだ?」と思うでしょうが、プロの批評家でもないのに「監督の采配」や「選手の成績」を気にして何だかんだ言ってたオジサン達と、アニメを見て作画やシナリオの出来不出来を気にしている今のオジサン達はとてもよく似ているなと感じます。
似たような所で昔の老人はテレビで時代劇を見ていました(祖父母の部屋に行くと、必ずと言っていいくらい時代劇を見てました)。そしてふと気づくと老人になった僕の両親は『科捜研の女』みたいな警察ドラマをよく見ています。どちらも勧善懲悪の分かりやすいドラマです。
かつて黄金期の邦画がテレビの人気に押されて衰退したように、アニメもYoutubeに押されて衰退してしまうのでは?と心配した事もありますが、プロ野球の代わりだとすると、半世紀ぐらいは人気が続くのかもしれません(適当)。
僕には子供がいないのでキッズ文化の方はよくわかりませんが、少なくとも中年や老人はそう変化したのだなと分かってきました。若い人には今更な指摘かもしれませんが、僕みたいな初老のオジサンにはこの変化は興味深いです。ではまた。
消えたケンプファー
今回は自分探しの話です。
自分探しと言っても「旅に出よう」とか「やりたい事を見つけよう」とか、そう言う話ではありません。「自分はいったい何が好きで何が嫌いなのか?」というスゴくミニマムな話です。
ある意味旅に出るより深刻な話かもしれません。自分が何が好きなのか自分でわからないワケですから。日常生活にそれなりに支障が出ます。自分一人で生きてるなら問題ないですが、他人に自分を説明する際非常に困ります。
とはいえ全く好きな物が分からないワケではありません。「自分はアニメや漫画が好きなオタク」というのは若い頃から分かってました。ただ漠然とし過ぎていて、はっきり「この作品が好き」「このキャラが好き」みたいな事が分からないのです。
僕はガンプラを素組みすることがあるのですが、気に入った物だけフィギュアケースに入れてます。ところがです。最近になって自分が一番好きなモビルスーツである「ケンプファー」が手元にない事に気づきました。他の優先順位が低い物はあるのですが、肝心のケンプファーがないのです。
別に大した問題じゃないのかもしれません。でも最近まで僕は自分が一番好きなモビルスーツがケンプファーである事すら知らなかったのです。リストアップした中から消去法で削って残ったのがこれだったのです。正直今でも「これなのか…?」と自信がなかったりします。
確かに中学生の時知り合いに好きなMSを聞かれ「ケンプファー」と答えた事がありました。でもその時はケンプファーは世に出たばかりで、「新しい物に飛びつくなんて自分はミーハーだな」と思ったぐらい自信のない物でした。
でもあらためて精査してみると、やはりケンプファーのようです。ケンプファー登場後、無数のMSが登場したにも関わらずこれなのです。
似たような話で最近まで僕の本棚には一番好きな少年漫画であるはずのドラゴンボールが入っていませんでした。他の漫画はいくらでもあったのに、ドラゴンボールはなかったのです。ホラーじゃね?とちょっと思ってしまいます。
自分のことが分かるというのは結構楽しい作業なのですが、もし僕と同じ境遇の人(そんな人いるんだろうか)がいたら、ぜひ自分の好きな物を一度検証してみてください。では。
ノンバイナリー
少し前に宇多田ヒカルが「自分はノンバイナリーだ」と発言して、ちょっと物議をかもしていたんですが。
「自分は男でも女でもない」と規定するのは、僕自身古い人間なので一見進歩的な発言に思えたのですが、考えてみれば「男か女か、0か1か」というのはデジタル的な発想であってアナログ的ではないよな、と。むしろ保守的な人間の発想ではないかと思ったのでした。
40代の僕が子供の頃は「男は男らしく、女は女らしくは古い」という考え方がメジャーだったと思うのですが、それが90年代を経て「逆に男が女らしく、女は男らしくというのもツライ」となり、僕自身どっちでもいいやになりました。
僕は若い頃に古い世界に閉じ込められた事があって、80、90年代を経ずに大昔のまま「男は男らしく、女は女らしく」で生きていた人達と共に過ごした事があり、それはそれで衝撃でした。
以前「Xジェンダー」という言葉を聞いた事がありましたが、似ているようでちょっと違うみたいです。どう違うかは各自でお調べください。では。